鹿児島大学教育学科編 岡本洋三退官記念論文集「現代の学校・教師を問う」より 鹿児島県における公民学校の展開 −青年大衆教育としての実業補習学校の独自組織化・独立校舎化− 目次 鹿児島大学 神田嘉延 はじめに 第1章 鹿児島での実業補習学校の特徴と公民学校の形成・発展 第2章 青年学校形成と公民学校−鹿児島県の青年学校機関形成の特徴− 第3章 鹿児島での公民学校の教育実践 はじめに 戦後の中等教育の成立過程を歴史的に考えていくうえで,青年大衆の教育機関であった 実業補習教育の発展をみなければならない。青年大衆教育の発展という視点からの中等教 育の発展は,高等教育機関の進学に連携している旧制中学校の発展ではない。青年大衆の 教育機関の発展ということから実業補習学校,青年学校の展開をみていくことが必要であ る。鹿児島県では,一町村一実業補習学校としての条件整備が大正末期から昭和初期に進 んでいった。この施策は,大正15年の青年訓練所令によって,拍車がかけられていく。 そして,独自に実業補習学校が高等小学校や尋常小学校から分離されて,独立校舎や専 任教員が配置されていく。実業補習学校の普及・整備は,小学校から離れて,独自の教育 機関化していくのであった。つまり,小学校に併設された実業補習学校からの大きな脱皮 によって,国民大衆のための中等教育機関としての整備の試みがされていくのである。実 業補習学校の教育では,農業教育をはじめ簡易な職業教育と同時に,普通教育として公民 教育が重視されていくことも特徴のひとつであった。鹿児島県では,その名称も公民学校 として,一町村に一つの公民学校の奨励として整備されていった。 ところで,1907年(明治41年)に小学校令の改正により,日本の戦前の中等教育機関は エリ−トをめざす中学校と一般大衆むけの高等小学校・実業補習学校を2極とする多様な コ−スの複線体系が確立した。一般大衆むけの実業補習学校は,高等小学校や尋常小学校 に付設した組織として1910年代に急速に発展し,1917年(大正6 年)から1919年(大正8 年)の臨時教育会議では,実業補習学校の義務制が議論されるほど青年大衆機関としての 高等小学校・実業補習学校の役割が重視されたのである。 1918年(大正7 年)の10月の「実業教育ニ関スル」答申案の議論では,義務制の問題が 議論されている。義務制にするのは,時期尚早であるが,その時期をなるべき早く到達す るように施設や教員等の条件整備をしていくことを答申している。帝国農会は,1924年( 大正13年)に,現在の6 年制の義務制に加えて,さらに2 年間の補習教育を義務制にする よう建議している。 「(1 )義務教育を終えたる者に対して引続き2ケ年間の補習教育は此れを義務制とす ること。(2 )補習学校の教育養成機関を普及充実すること。(3 )国庫補助の増額を行 うこと。・・・・・補習教育終了の子弟は各其家庭にありて実際農業の業務に従事せしめ 満18歳に達するまで農業にたいする体験知識,趣味を会得せしめ」として実業補習学校の 義務制を奨励するように建議している。(1 ) 以上のように中等教育前期の義務制の問題は,臨時教育審議会や帝国農会など各界で, すでに大正期に議論されていたのである。 鹿児島県での補習学校は,地域農業振興施策と密接に結びつき,地域の農会活動や農村 青年会とも深い関係をもって展開した教育活動である。本稿では,鹿児島県で独自に展開 した実業補習学校の独立学校化としての公民学校の形成及び公民教育と職業教育という二 つの特色をもっていた実業補習学校の鹿児島的な発展の公民学校の形成・発展過程と実践 について分析するものである。 第1章 鹿児島県の実業補習学校の特徴と公民学校の形成・発展 第1節 鹿児島県での実業補習学校普及の特徴 鹿児島県では,明治中期に,既に実業補習学校が創設されていた。1893年(明治26年) に実業補習学校規定が井上文部大臣によって発令されたことにより,鹿児島でもいち早く 1893年(明治26年)に日置郡伊作に伊作女子実業補習学校が創設されている。伊作での実 業補習学校は,女子を対象にした裁縫,機織りの課程であった。 そして,伊作の実業補習学校は,1895年(明治28年)に男子を対象にした農業や製紙の 課程の実業補習学校ができた。この当時の実業補習学校の課程は,裁縫や機織りの女子を 中心とする職業的課程のものが各地につくられていく。 1895年に鹿児島市の市立女子実業補習学校,1896年に肝属郡市成女子実業補習学校, 1899年に高山実業補習学校,1901年に熊毛郡北種子女子実業補習学校,1902年に日置郡西 市来女子実業補習学校というように鹿児島県の実業補習学校の創立当初の10年間は,女子 の課程が中心であった。 1900年当時の一補習学校当たりの経費は,1435円で一生徒当たりに22円の予算を使って いるのである。男子を対象にした実業補習学校の課程が増加していく1905年には,一補習学 校当たりの経費は,170 円,一生徒当たり6 円と極端な減少になっていく。 1907年の義務教育年限が4 年制から6 年制の延期の年度の鹿児島県の実業補習学校の普 及数は,72校であったが,この数字は,1915年(大正4 年)まで77校とあまり大きな変化 はなかった。つまり,義務教育6 年制の実施による10年間は,実業補習学校は減ることは なかったが,大きな増加はなかった。 鹿児島県において実業補習学校が,急速に発展していくのは,1916年128 校,1917年30 0 校,1918年417 校である。生徒数は,1915年(大正4 年)2481人,1916年(大正6 年) 5760人,1917年(大正7 年)20332 人,1918年(大正8 年)32629 人となり,その後は, 1926年(大正15年)まで学校数も生徒数も大きな変化なく横ばい状況で推移していく。鹿 児島県では,1916年(大正6 年)2 月に県令として,「実業補習学校の設置廃止等ニ関ス ル規定」の整備によって実業補習学校が県下一斉に普及していくのである。これらの実業 補習学校は独立した機関としてではなく,高等小学校や尋常小学校に付設されての地域の 青年の教育機関になっていったのである。 1915年(大正4 年)の大口尋常小学校の学校要覧から女子実業補習学校の内容をみれば 次のように簡易な裁縫や機織りの職業教育をすることを目的としている。「本校ハ村内婦 女子ノ職業タル普通ノ機織り染色裁縫ノ実業ニ従事セントスルモノニ簡易ナル方法ニヨリ 其ノ職業ニ必要ナル知識技能ヲ授クルト同時ニ普通教育ノ補習ヲナサシムルヲ以テ目的ト ス」。そして,大口尋常小学校に付設する補習学校とされ,本科40名,専修科10名,研究 科10名の定員が定められている。本科は修業年限2 年で,修身,国語,算術,機織り,染 色,裁縫,家事,農業とされ,専修科は修業年限1 年として,修身,機織り,染色,裁縫 ,家事とされている。研究科は,修業年限随意として,機織り,染色,裁縫,家事となっ ている。専修科や研究科になると職業的な教育が中心となり,普通教育の科目はされてい ない。地域における職業的な技術を高めるために実業補習学校の専修科や研究科が積極的 に利用されていたのでらう。また,実業補習学校の授業料は一か月14銭である。急激に発 展していった実業補習学校であったが,授業料は有料であった。 離島での大正期の実業補習学校の教育として,1916年(大正5 年)の和泊村立実業補習 学校をみれば,和泊では,修業年限を2 年として,男子に修身,国語,算術,農業を教え ,女子には,修身,国語,算術,機織り,裁縫,家事の科目を置いている。普通科目は男 女共通であったが,職業的な科目として,男子は農業で,女子は,機織り,裁縫,家事の 科目であった。毎週の授業数は,男女とも12時間であるが,その内訳は,男女修身1時間 ,国語男子3時間,国語女子2時間,算術男子3 時間,算術女子2 時間,農業男子5 時間 ,機織り女子4時間,裁縫女子3時間,家事女子1 時間となって,男子と女子のカリキュ ラムの内容が大きく異なっていたのである。普通教育においても国語や算術は女子の方が 少なくなっている。(2 )毎週の授業時間は12時間ということから,昼間に充分な時間を とったものではなく,夜学を中心にしての教育であった。 ところで,1910年(明治43年)に高等女学校の改正令により,主として家政に関する学 科目を履修しようとするために実科高等女学校の設置が定められたが,鹿児島でも加治木 実科高等女学校(1912年設置),薩摩郡立実科高女(1913年設置),姶良郡立実科高女( 1913年に国分),出水村立実科高女(1914年設置),加世田村立高女(1914年設置),川 辺村立実科高女(1914年設置)。これらの実科高女の設立の背景は,高等小学校に付設さ れていた修業年限二か年の実業補習学校教育に対する不満があったということである。姶 良郡立実科高等女学校の設立趣意書では,鹿児島市に高等女学校等の修学するものが,13 0 名に達しているが,これらには,親元を離れるため多額の費用がかかるため地元に高等 女学校をつくってほしいという要望が強くあったということである。(3 )女子を対象に した実業補習学校が発展して,実科高等女学校になった事例も少なくなかったのである。 大正期には,さらに,地方に高等女学校の設立が進んでいくが,それらは,実業補習学 校女子部から発展したものである。小根占村立小根占実科高等女学校は,1926年(大正15 年)に実業補習学校女子部から昇格して設立されている。実科高等女学校は,小学校に付 設されたもので独自に専任教師が配属されたのである。地方に高等女学校の整備が不十分 な状況で実業補習学校女子部の実科高等女学校の設立要求は強いものがあった。 大正期にそれぞれの小学校に実業補習学校が存在していたが,実際の授業形態は,各部 落の青年夜学舎に小学校の兼務教員が出張して行われていたのが多い。例えば,そのよう な実態を次に示すように知覧の実業補習学校に典型にみることができる。「知覧補習学校 は本校を小学校におき,分教場を次の十部落の青年集会所においた。・・・・・校長は小 学校長が兼務し,教員には小学校の訓導が委嘱された。各分教場に男子教員が配置され, 1週間1回の主として国語,算術の授業が夜間に行われた。女子のための実業補習学校で は昼間に女子教員による授業があったが,大正十年村立実科高等女学校が開校になり,自 然廃校となった」。(4 ) 夜学舎は,元来若者中心の集会所であっただけに,村内に尋常小学校が開設されてくる と,小学校の補習を行う協同学習の場として,明治30年以後急速に普及していく。学校 教科の復習を主とし,徳育と体育を重んじ,全員の意志識見を錬磨し品性を修養して有為 の人物を養成することに学舎の目的があるとされていたのである。(5) 大正6 年に鹿児島県は,師範学校内や田上等の師範の代用付属校に県立の補習学校を付 設した。それは,県下のモデル校として実業補習学校を振興するためであった。そして, 農村中堅青年のリ−ダ−を養成する郡立実業補習学校の設立を1916年(大正6 年)にそう 郡,日置郡,1917年(大正7 年)に肝属郡,指宿郡,姶良郡,1918年(大正8 年)出水郡 に設置した。 各郡の郡長が郡立実業補習学校の校長となり,巡回指導する専任教員をそこに配置した のである。田上小学校に付設された県立実業補習学校や各郡単位に設立された郡立補習学 校の設置によって,県下各地の実業補習学校の指導が強化されていく。郡に拠点校をつく って各町村の小学校に指導していくという方法である。実業補習学校の普及において郡組 織の果たした役割は大きかったのである。 さらに,1924年(大正13年)に鹿児島県では,実業補習学校の専任教員を養成するため に,鹿児島高等農林学校内に実業補習学校教員養成所を独自に付設した。そして,実業補 習学校の教員は鹿児島高等農林で研修をした。大正6年の鹿児島県の実業補習学校の奨励 施策に対応して,師範学校としても甲種農学校の卒業生を積極的に第2部乙課程に入学さ せて実業補習学校及び農村小学校の教員養成の計画をもった。 この課程は,中学校卒業者の甲課程と区別して養成を行った。そして,実業補習学校の 教員養成を積極的に推進するために鹿児島高等農林学校内に実業補習学校教員養成所を( 大正13年)を付設した。これにより制度化された充実した内容のある実業補習学校の教員 養成の組織的な展開がはかられたのである。この教員養成所の所長は,鹿児島高等農林の 教授が兼務したのである。(6 ) 以上のように,教員養成と教員の研修ということから師範学校と高等農林の連携が地域 の農業振興のための実業補習学校ということで積極的にされていたのである。「この県立 実業補習学校教員養成所は,創立当初,小学校本科正教員のうちで,成績優良なものを各 郡市長から推薦入所させたため,有力な小学校長または,中堅教員が多く入所し,第一回 入学者30名の年齢構成も,最高40年3 月,最低25年5 月,平均年齢32年と高く,その後も ,小学校教員有資格者で多年小学校教育の経験を有するものを入学させ,修業年限1か年 の専門教育を実施したため,教員再教育機関の性格を有していた。この教員養成所は,鹿 児島高等農林学校の校舎を仮校舎として,その施設を利用して教育を進めが,その卒業生 が,独立の実業補習学校の幹部として,活躍したために,鹿児島市を初め県内の勤労青少 年教育の寄与するところも,きわめて大であった」。(7 ) 県の実業補習教育の定期的な研究会は,鹿児島高等農林を会場として,実地授業,研究 発表,講演などが行われていた。鹿児島の実業補習学校の教員養成において,鹿児島高等 農林学校が大きな役割を果していたことを見落としてはならにのである。鹿児島高等農林 学校が県下の小学校に付設された実業補習教育の指導体制に大きな役割を果していくので ある。ここに,鹿児島県の実業補習学校の専門的な教員配置強化の特殊性がったことを見 落としてはならない。 第2節 鹿児島県の実業補習学校の独立機関としての公民学校の形成過程 1923年(大正12年)の西志布志実業補習学校が独立学校となり,高等小学校の付設施設 としてではなく,専任の校長と教員が生まれた。翌1924年(大正13年)では,大崎の実業 補習学校が独立校に,1925年(大正14年)串良中等公民学校の設立,1926年(大正15年) には,枕崎高等公民学校,志布志公民学校,川辺農業専修学校というように大正末期に実 業補習学校学校が小学校の付設した組織から独自に学校の校舎と専任の校長と教員をもつ 教育機関として発展していったのである。 鹿児島県では,大正15年に実業補習学校教育実施要項を設定して,それ以前の一町村一 実業補習学校の方針から,町村単位に独立した実業補習学校の設置を奨励していくのであ る。また,実業補習学校学校の名称を公民学校や高等公民学校の名称にしていことを認め ていった。独立した校舎と専任の校長と教員をもつ実業補習学校は公民学校や高等公民学 校という名称に変更していくのである。 昭和期に入り,その後次々と各町村に公民学校が作られていく。1927年(昭和2年)鹿 屋中等公民学校,1928年(昭和3年)高山公民学校,知覧公民学校,隼人高等公民学校が 設立されていく。1929年(昭和4 年)東串良公民学校,加治木中等公民学校,岩川公民学 校,1930年(昭和5 年)谷山高等公民学校,串木野高等公民学校というように設立されて いく。 1930年に鹿児島県は,実業補習学校の独立化が進んでいくなかで,青年訓練所との関係 をも含めて「鹿児島県実業補習教育実施要項」を定めていく。ここでは,次の六点にわた る特色ある施策を明確にしていくのである。 「学校組織の体系を整備し,青年訓練は之を実業補習学校中に包容し,校名を公民学校 及高等公民学校と称し,各町村に両課程を置くこと。二,学科課程を地方化し,必修科目 ,随意科目等の制を設けること。三,学校を統合し,なるべく町村単位に特設すること。 四,就学出席督励に関し規定を設けること。五,実業補習教育委員を設置して諮問機関と したこと。六,その他施設の充実を期すこと」となっている。この実業補習学校の実施要 項は,独立していった公民学校を積極的に位置づけ,さらに,普及・充実していくための 県としての体制整備の施策である。とくに,補習学校を小学校の校区から町村単位主義に 整備して,教育の内容も地方化していくことに特色をもたせたのである。また,実業補習 学校と青年訓練所を統合しての公民学校づくりも大きな特徴である。 実業補習学校の独立校舎化,専任の校長・教員の体制のなかで,特質すべきことは,従 前の夜間教授から昼間の教授にかわっていくことである。小学校教育の延長的な補習学校 的な性格から地域の青年大衆のための本格的な中等教育機関的性格へと大きく変化してい くのである。この問題について,鹿児島県教育会は,昭和8 年の実業補習学校の総括とし て次のようにのべている。 「本県実業補習教育の伸展上忘れてはならぬことは,従来の夜間教授の廃し昼間教授と なし,季節制を改めて通年制となしたことである。この改革は大正13年頃からの事で,非 常な苦辛努力の結果であることは勿論であるが,時代の要求もあり,県の指導もあったが ,多くの学校で夜間教授の労多くして効果の少ないことを体験していたことと,県民の教 育に対する熱心とが遂に之を断行せしめたのであった。その結果は案外によく,就学の出 席も,教育の効果と相俟って向上の一路を辿ったことは喜ぶべき事である,かくして専任 教員の必要に迫られ,専任教員の活動によって学校内に極限されていた,指導が家庭に伸 び,部落に及んで,部落改善となり,町村改善となったことは,自然の勢というべく,加 ふに国庫並県費の補助も増額される等のことあり更に専任教員の増置となり,生徒数の増 加となり,尚通年毎日の学級を置く学校も次第に増加したので,実業補習学校の内容の充 実,設備の整備の必要に迫られ,町村当局の決断と町村民の興論とは遂に学校を町村単位 に統一し,更に独立校舎を建設し,専任校長を置くもの次第に其の数を増加するに至った 」。(8 ) ところで,鹿児島県の公民学校は青年訓練所と実業補習学校を合体した組織として展開 したのであるが,独立した校舎と教員の配置ばかりでなく,教育内容において,教練など の要素が積極的に導入され,軍部との関係も一方では強めて行き,当然ながら従前の実業 補習学校の機関の性格も変化していく。実業補習学校では,既に,研究科課程など青年団 と結びついての活動が積極的にやられていた。大正15年に青年訓練所令の公布により,鹿 児島県では,青年訓練所を実業補習学校の充実の方法として積極的に利用していく。そし て,青年訓練所令によって鹿児島県の実業補習学校の施設整備や組織が大きく飛躍してい くことを見落としてはならない。 鹿児島県では,青年訓練所を大正15年7 月1 日をもって県下一斉に開設すえうが,その 数は,351 ,支所87,実業補習学校の代用9 施設として出発している。そして,入所数は ,概略4 万人となっていた。県の学務部長は,青年訓練所の出現によって,今後実業補習 学校をもって青年訓練所を代用するものが増大すると予測している。そして,補習学校を 捨てて訓練所にのみしようという事は教育上極めて損失の多大なるということで,実業補 習教育の重要性を引き続き強調しているのである。むしろ,実業補習学校によって,青年 訓練所の機能を代用することを奨励している。実業補習教育における職業的訓練,職業に 関する教育を積極的に評価している。(9 ) ここでの指摘で重要なことは,青年訓練所の機能を中心にして,実業補習学校の独立校 舎が進んでいったのではなく,従前からあった実業補習学校の教育機能の発展に青年訓練 所令を利用しての組織の合体化によって,実業補習学校の施設や教員を充実していったと みるべきである。 昭和5 年の鹿児島県実業補習教育実施要項によって,青年訓練を実業補習学校に包含す るという公民学校の体系的整備方針によって,一層実業補習学校の独立化が進行して,各 地に公民学校が生まれていく。昭和6 年に9 校,昭和7 年に6 校,昭和8 年に8 校と増え ていく。昭和8 年には,39町村に公民学校が存在するようになる。 例えば,エイ村高等公民学校は,村内10校の小学校に併設されていた実業補習学校をひ とつの学校として統合して,村内一円の公民学校として出発したものである。教職員は, 専任として一カ所に集めて教育を行ったが,実業補習学校の機能と青年訓練の機能との二 面をもっていた。公民科は主任と部員3名,職業主任,販売斡旋主任,青年訓練教官3 名 ,女子3 名,分教場8 人,さらに,普通農業2 名,畜産1 名,養蚕1 名,茶1 名,煙草1 名,建築土木1 名,電気(兼任)1 名,水産1 名,家事裁縫1 名という職業科の10名の職 員の配置であった。教育方針は次のようにかかげられていた。 「一,皇室を尊び国体観念を明らかにして国家精神の涵養に努めること。二,学校は外 的には本村の実際生活に即し村の各種産業の改良指導を図る為,単に学校内に於いて生徒 の教授訓練のみに終始せず,職員は交互に部落に出張し良く部落民と接触相提携して指導 に当たること。三,学校は内的には生徒を本位とし,生徒並に父兄の希望職業に応じ,学 級を編成して教授を施すこと。四,学校は愛汗主義,勤労主義を「モットウ]とし,職員 を初め訓練服を制服とし,実践窮行の範を示し,勤労を尊重し,愛汗する精神を養って農 民精神の発揮につとめ,かくして質実剛健なる気風を樹立すること。五,教授は実習を通 して,之によって理論を授け,技術に偏せず理論に走らず,以て職業教育を施すと共に, 公民教育を行うこと」。以上のように公民学校の教育は,国家精神の涵養という青年訓練 所の内容と従前の実業補習学校の地域の農業振興等実際生活に即しての愛汗主義の農民精 神を強調している。 ここでの教育施設は,新しく6 教室がつくられ,旧校舎の4 教室が移転され,家事裁縫 室が1教室となっている。付属の農業教育施設は,畜舎,豚舎,鶏舎,堆肥舎,収納舎, 農具舎,茶工場とが備ええられている。校庭敷地は,1 町3 反,校内実習地は,1町とい うように農業の実業的な学校施設として整備されてく。(10) 昭和8 年には,実業補習学校は,鹿児島県で197 校を数えていたが,専任の校長を置い た学校は39校で,一町村一校に統一された補習学校は,106 校である。青年訓練を兼ねて いたところは,105 校であった。鹿児島県の市町村数は,当時142 あり,一町村一校の実 業補習学校の体制はかなり進んでいることがわかる。実業補習学校の生徒数は,4 万4 千 人であり,一つの実業補習学校あたりの生徒数は,223 人(全国平均91人)となり,兼任 の教師1029人,専任の教師749 人を数えていた。経常費は3150円(全国平均1044円)と全 国的にも実業補習教育に大きな経費を費やしていたのである。 実業補習学校を地域で支え,その運営にも協力していくという補習教育委員の組織をも っている学校は,72校に広がっていた。実業補習学校には,農業実習をもっていることも 特徴の一つである。農業実習地をもっている補習学校は140 にあがっている。農産物の製 造ができる学校102 校,農村工作のできる学校108 と農業関連の製造物や工作のできる施 設を実業補習学校は備えていたのである。 農産製造は,漬物,味噌,醤油,布海苔,製茶,缶詰,ソ−ス,製糖,澱粉等となって いる。農村工作は,藁工作,竹工作,木工,コンクリ−ト,金工製糸,真綿,竹皮等。以 上のようにそれぞれの実業補習学校で地域ごとの特産物などとも結んで多様な農産物製造 ,農村工作物の訓練が補習学校で行う設備的条件をもっていたのである。(11) 鹿児島県の昭和7 年の実業補習学校の調査によれば,専用校舎を有する実業補習学校は 32校あるが,その地域的な分布で,鹿児島市,鹿児島郡,熊毛郡,大島郡がひとつもない 。鹿児島市と離島地域において,実業補習学校の独立校舎がみられないのである。最も独 立校舎をもつ郡は,出水郡で7 校である。囎於郡5 校,肝属郡5 校,日置郡4 校,川辺郡 3 校,指宿郡2 校,姶良郡2 校,伊佐郡1 校となっている。専用教室を有する実業補習学 校は,77校である。独立の校舎と独立の教室をもっている補習学校が半数近くであった。 鹿児島郡の実業補習学校は,独立校舎も専用教室があるところが少なく,小学校の校舎を 兼用しているところが多いのである。実業補習学校を公民学校として整備していくなかで 青年訓練所を充当していることも見落としてはならない。 農村市街である地方小都市部を中心にして,一町一実業補習学校の条件整備が青年訓練 所を充当させて,実業補習学校の独立校舎が進んでいったという特徴をもっている。一町 村一実業補習学校の進んでいない郡は,12郡のうち熊毛郡(5 自治体22校),姶良郡(18 自治体31校)薩摩郡(21自治体36校)である。一町一実業補習学校の進んでいない郡と離 島においては,独立校舎の動きが少ないのである。 全体の210 校のうち,実業補習学校の名称は,中等公民学校59校,高等公民学校44校, 公民学校22校と公民学校の名前がついているものが125 校であり,農業補習学校27校,実 業補習学校43校,農業補習学校27校,その他15校となっていた。実業補習学校のうち,水 産を課している学校は11校,商業を課している学校9 校,工業を課している学校6 校とな っている。工業は,機織り4 校,竹工1 校,木工1 校である。工業を有する実業補習学校 が女性の機織りであることも注目に値する。 多くが農業を中心にしての実業補習学校の職業科がなりたっていた。男女別の実業補習 学校の割合は,男女を収容する学校が,162 校,男子のみを収容する学校24校,女子のみ 収容する学校24校となっていた。多くが男女を有する実業補習学校であり,課程によって 男女に分けていたのである。210 校の実業補習学校のうち,青年訓練を充当する学校は10 5 校あり,実業補習学校の半数が青年訓練所的機能を備えていたのである。 実業補習学校の専任教員の配置状況は,鹿児島県全体で男性教諭202 名,女性教諭22名 ,男性助教諭170 名,女性助教諭55名,男性嘱託277 名,兼任教員男性584 名,女性248 名となっており,教員の男女比率は男性に大きく偏っていた。兼任の数に比較すると専任 の比率は低いが,指宿郡(54%),出水郡(65%)等の地域では専任の教員が兼任よりも 多くなっている。 地域によっても教員の配置が著しくことなっているのが現実であった。いうまでもなく ,独立校舎は組織も小学校から独立して兼任している校長から専任の公民学校の校長にな っていくが,必ずしも独立校舎と校長の専任が一致していないのも注目するところである 。鹿児島市専任校長が2 名,鹿児島郡1名と独立校舎のない地域に3 名の校長の配属があ り,出水のように7 校が独立校舎になっているが,校長は2 名しか配属されていない郡も ある。このように専任の校長の配属のすべてが独立校舎と必ずしも結びついていないが, 大方が一致しているのである。(12) 実業補習教育の40周年の記念として,鹿児島県教育会の雑誌「鹿児島教育」では,鹿児 島県の実業補習教育の将来として,各学校がとりくむべきことを六点あげている。「一, 青年の修養道場たる独立校舎の建設の普及を図り,設備を充実すること。少なくとも専用 教室の無き学校をなくすこと。二,すべての青年に修学の機会を与えるよう,組織編制を 分化すること。三,なるべく専任校長を任用し,専任教員特に女子専任教員を充実するこ と。四,実習施設を拡充して,真に適切有数なる指導を徹底せしめること。五,生徒に自 学の指導をなすと共に,一事研究を奨励すること。六,進んで家庭指導,町村改善に努め ること」。鹿児島の実業補習学校を充実していくうえで,独立校舎の建設と専任校長・専 任教員の任用の重要性を力説している。専任教員の任用において,女子の教員配置を強く 求めていることは特質すべきことである。実業補習学校における女子教育の充実において ,女教員の配置の要望である。 昭和8 年段階の実業補習学校の独立化は,夜間教授から昼間の教授に移行し,恒常的に 学校に通学する体制になっている学校が増えてきているなかで,内容的には,補習学校と いうよりも独立しての実業学校としての体系に移っていこうとするのが実態であった。独 立した実業補習学校としての公民学校を支えていく大きな課題として,優秀な教員の配置 があり,実業補習学校教員養成所の充実が求められていると県の教育会では考えていたの である。(13) 第二章 青年学校の形成と公民学校−鹿児島県の青年学校機関の形成の特徴− 公民学校は鹿児島県全域に配置されていくのではなく,特定の地域に集中しているのも 特徴であったが,それは,青年学校の形成においても大きな影響を与えている。公民学校 として,実業補習学校の内容が,すでに,独立校舎化,専任の校長や教員が配置されてい た地域と条件整備のない地域とは大きな違いがあったのである。 昭和16年5 月に県庁内に事務所がある鹿児島県青年教育振興会が発行した「躍進する青 年学校」は,県内全体の青年学校ができる経過が記載されている。この「躍進する青年学 校」のなかで,それぞれの青年学校ごとに,組織,生徒数,教育目標,経営方針,学校施 設,歴史などが記載されているが,それは統一した記載項目ではなく,教育目標を重点に 書いているところ,経営方針を中心に書いているところなどさまざまである。このなかで ,青年学校の形成過程を書かれている学校の事例分析により,鹿児島県の青年学校の形成 の特徴をみることができる。 鹿児島市の補習学校は,実修女学校3校,商業実務学校1校が,昭和7 の実業補習調査 に記録されているが,これらは,独立した校舎をもっていたものではない。校長は,2 校 に配属されていた。躍進する青年学校記念誌に記載されていた鹿児島私立鹿児島青年学校 は,専任教員4 名,兼任22名,指導員7 名,講師2 名というスタッフで,生徒は,男子91 8 名・30学級,女子635 名・学級13をかかえているが,多くは兼任であり,専任の体制が 極めて弱い。鹿児島市立鹿児島青年学校は,鹿児島商業実務学校と鹿児島実修女学校と市 内の3つの青年訓練所を合わせてつくっているが,普通科1 学級,理髪科1 学級の一部の 昼間を除いて,すべて夜間授業になっている。教授の内容も国家的なことに関する講話や 団体訓練,修養会的なものや体力向上的銃剣道,行軍,相撲などのものになっている。ま た,郊外指導として,生徒の職場訪問も特徴的である。青年訓練所的な側面を強くもった ものになっている。 鹿児島市立新田青年学校は,職業教育に力を入れているのも特徴的である。スタッフは ,専任8 名,兼任22名であり,生徒は,881 名・33学級である。専修科(2 年で終了)の 電気科は,逓信省電気工事人甲種無試験によって電気の職工資格をもてる得点をもってい る。土木科は,(2 年で終了)は,測量設計に重点をおいて教育している。商業科(1 年 )は,簿記,珠算,習字を主として,会社,銀行,工場の下級事務の養成をめざしている 。国漢数学科は,陸海空軍,逓信,鉄道の諸試験に応ずる者のために設置している。交通 科は,市営電車及びバスに従事するための修身公民,教練体操,普通科の教授のために設 けられている。 鹿児島市立松原青年学校は,専任教員3 名,兼任教員17名のスタッフで,男子1000名, 女子200 名の生徒の教育を行っている。生徒は,昼間働いている者であるとして,都市青 年の弱点を補う教育が必要としている。「都市青年として最も大切なのは心身の鍛練であ る。健康な農村青年が都市に出て筋肉薄弱となる者が多いのに鑑み」」という学校経営の 方針で実践している。中州青年学校は,専任1 名で夜間のコ−スで昼間働く青年に心身鍛 練の教育を実施している。山下青年学校も専任1 名で前者と同じ教練を中心に実施してい る。鹿児島市につくられた青年学校は,教練的な性格が強く働いており,実業補習学校か らの伝統的な地域の実際生活に即した職業的教育や公民的教育の性格が弱いのである。 鹿児島市のなかでも農村的性格が強い地域であは,伝統的な実業補習学校的な性格をも って学校運営がされている。鹿児島市の青年学校で実業補習学校の基盤が相対に強かった ものとして,紫原農芸青年学校があった。これは,県立実業補習学校であった田上小学校 に併設されていた補習学校と宇宿中等公民学校を合併してつくったものである。スタッフ は,専任教員10名,兼任3 名,指導員8 名で男子生徒187 名,女子生徒206 名,17学級で 行われていた。鹿児島市に合併された田園都市としての性格をもっている地域である。 鹿児島市の青年学校の形成は,全般的に独自の教育施設はもちろんのこと,生徒数に対 して専任教員の数も極めて少ない状況であった。これは,青年学校の形成において,大き な基盤になった実業補習学校の整備がなかったことも大きな要因である。 鹿児島郡も独立の実業補習学校の教育機関としての条件整備が弱かった。鹿児島郡(8 町村)は,実業補習学校は13校であるが,8 校が小学校の施設を兼用している。谷山町, 吉田村,西桜島の三町村が独立の青年学校として,東桜島が小学校との共有施設として躍 進する青年学校記念誌に記載されている。 谷山町立青年学校は,実践女学校と併設され,学校経営上は,男子部と女子部と公民学 校という実業補習学校時代の経営方法を踏襲している。職業教育は,男子の木工教育,女 子にタイプライタ−の学科を設置しているが,生徒の多くは普通学科を中心とするもので ある。男子昼間普通科240 名,男子夜普通科92名,男子工業40名,通年水産33名,季節水 産60名,女子昼間16名,女子夜間184 名となっている。教員は,専任13名,兼任13名,指 導員6 名,講師2 名,校舎は527 坪で運動場1028坪,実習地10町となっており,独立の教 育機関としての条件整備がされている。吉田村の青年学校は,専任教員7 名,兼任4 名, 指導員3 名,校舎287 坪である。西桜島は,専任7 名,兼任2 名,指導員3 名,校舎427 坪である。東桜島専任4 名,兼任4 名,教練教授嘱託3 名,校舎は小学校と共有というこ とである。 熊毛郡を典型として,従前の小学校に併設された実業補習学校をそのまま継続して一町 村一実業補習学校の形態をとらない地域もある。昭和7 年現在においても実業補習学校の 名称をそのまま通している学校は80校ある。小学校の教室を兼用している実業補習学校は ,昭和7 年のときで80校存在する。専用の独立した校舎をひとつももっていない郡は,鹿 児島郡以外に大島郡,熊毛郡と三郡ある。これらの郡では,小学校の教室を併用している 比率が高いのである。小学校の教室を併用している率が,40%の郡が薩摩郡(43%),姶 良郡(45%),肝付郡(40%)と三郡存在する。 一町村一公民学校として,校舎の独立化が早くから進んでいた指宿郡は,郡内の5町村 のうち,すでに,昭和7年に専任の校長が配属されていた公民学校は4校あった。地域的 に補習学校の整備が進んでいるとこであった。 独立化した校舎をもっていた喜入村の青年学校は,躍進する青年学校記念誌で専任教員 15名,兼任5 名,講師10名,指導員5 名のスタッフを擁して,農業教育施設として,水田 1 町6 反,畑2 反,柑橘園1 反,堆肥舎,養蚕室,煙草乾燥室,薬剤調整室,豚舎,鶏舎 と記載されている。 昭和59年に発行された「喜入青年学校記念碑建立の記念誌」によれば,昭和7年に公民 学校となり,校舎敷地1 町,グランド1 町2 反,実習地2 町と書かれている。喜入村の高 等・中等公民学校は,村内の小学校に併設されていた中等公民学校を統一し,喜入実科高 等女学校を廃止してつくったものである。学校経営の基本方針は,「学校は一戸のモデル 農家」として,当時の自立農家の経営理想の二町歩の実習地をもった。宿直兼小使室をモ デル農家として設計している。 「1 ,カマドは改良カマドにし,炊事はコンクリ−ト張りで土足で食事ができるようテ −ブル式にした。2,内風呂,内便所(外からも出入り可)は当時珍しがられた。3,朝夕 作業するように土間を広くし,製えん機二台を置いた。4 ,縁側を広くし,来客の接待や ,簡易な干し場に利用した。5 ,土間に黒板をかけて月間の作業計画を記入した」。学校 は,化学肥料の開発,品種・育種の改良,害虫駆除の方法,回転除草,足踏脱穀機の普及 ,園芸栽培法,煙草の栽培法等の農業技術普及の拠点になった。 指宿町立青年学校も喜入と同じ規模で,専任17名,兼任14名で校舎は660 坪,校舎敷地 1 町で,運動場1 町3 反,実習地4 町2 反で学校経営を行っていた。ここでは,職業教育 として,農業,工業,商業,水産に分けていたが,19学級で男子生徒426 名,女子338 名 であった。指宿青年学校の商業科を基盤にして,町立の商業学校が生まれていく。終戦後 は解体する。 今和泉村青年学校(現指宿市に)は,昭和4 年に全村の実業補習学校を統一して今和泉 高等小学校内に高等公民学校を設置した。そして,昭和11年に独立の校舎をもつにいたっ た。専任教員は8 名,指導員4 名,兼任12名というスタッフであるが,終戦後に青年学校 解体にともなって,青年学校が定時制の高校になり,現在では,指宿の商業学校になって いる。 山川町立青年学校は,昭和2 年3 月(公民学校)に発足して,校舎昭和13年に282 坪, 6 教室,家庭科用2 教室,実習地は,校有地畑6 反7 畝,借地田4 反8畝,畑8 反7 畝と 2 町歩以上の農業実習地をもっている。専任教員は男子8 名,女子2名,兼任教員4 名, 嘱託5 名というスタッフで,男子318 名,女子129 名を教えている。 隣のえい村立青年学校は,昭和6 年に各小学校に併設されていた実業補習学校を統一し て,公民学校をつくっている。学校では,茶園6 町,柑橘園5 反2 畝を経営していること と,村営電気及び村土木事業の遂行のために,学校内にこれらの学科をもうけて生徒を全 村で実習させている。えい村立の青年学校は,専任23名,兼任14名,指導員10名,講師2 名,中国語教師1 名というスタッフであった。 以上のべたように指宿郡の青年学校は,公民学校の形態がすでに昭和初期に整備されて おり,その基盤のうえに青年学校が発足していることから,独立した校舎と専属のスタッ フがきちんとしており,独立した学校組織としての体裁ができているのである。 ところで,企業内を中心にした私立の青年学校のあったことは注目すべきことである。 多くは青年学校令によって企業内につくられたものであるが,大正期から企業内にあった 補習教育が発展していったものもある。私立青年甲南実践女学校は,大正6 年2 月の鹿児 島紡績の補習教育としてはじまり,昭和9 年に甲南実践女学校になり,青年学校令によっ て青年学校として組織替えしている。校長は工場長で専任教員男子3 名,女子5 名,兼任 工場職員男子5 名,女子1 名の合計16名のスタッフで実施している。生徒数は,759 名で 尋常小卒536 名,高等小1 年終了68名,高等小卒130 名,その他卒25名となっている。教 育内容は,経文に基づいて法話を聞き,報恩講や仏教婦人会の活動に入る。労務者根性の 卑下を除去して,人格尊重に励む。産業報告国を目標に勤労愛好の精神を涵養する。工場 ,寄宿舎,学校いずれも修養道場であることを認識せしむ等。私立山形屋青年学校は,大 正8 年4 月よりの当店内に設けられた学習舎からの発展である。 この他に鹿児島市の企業内の私立青年学校は,薩摩製糸鹿児島工場と吉見鉄鋼所青年学 校がある。薩摩製糸の青年学校は,昭和10年に創立され,工場長を校長に専任教員3 名, 社員より指導員2 名,講師4 名のスタッフで教育をしている。生徒は,男子40名,女子70 5 名で勤労学校として,同一工場,同一宿舎の集団生活をしていることから工場即教場, 工場生活即教育ということで大家族主義の教育を実施している。 吉見鉄鋼所の青年学校は,昭和14年に開校され,6 学級で男子4年制67名,研究科11名 ,専修科5 名の83名の生徒を教育している。校長は,重役であり,主事1 名,兼任教員12 名で運営している。授業内容は,修身公民,教練の他に普通科目として国語,国史,数学 ,物理,化学,地理,英語を課し,職業科目は,製図,機械工作法,電気工学,材料工業 経済,服務要項,基本実習等となっている。ここでは,職業技術教育に力を入れているの である。 鹿児島市以外の県内においても企業内の私立の青年学校は多数存在したのである。出水 の製糸工場内の諏訪女子青年学校(3 年課程で107 名就学),酒造業の加世田本坊青年学 校(生徒34名,教員専任5 名,兼任4 名),枕崎漁業協同組合での私立枕崎海洋青年学校 (生徒198 名,船内を教室として),私立薩摩製糸宮之城女子青年学校(昭和11年に創立 ,生徒普通科41名,本科192 名,研究科68名,専任教員1 名,兼任6 名,講師2 名),私 立蒲生製糸女子青年学校(専任教員2 名,講師8 名,生徒本科44名,普通科17名,研究科 62名),川内の私立松本製糸女子青年学校(生徒女子50名),川内の私立薩摩硝子青年学 校(生徒13名),川内の私立旭織絹青年学校(生徒男子本科24名,女子87名,研究科49名 ),私立三井串木野鉱山青年学校(生徒男子16名,校長は所長,専任指導員3 名),私立 山ケ野鉱山青年学校(男子本科70名,研究科19名,専任教員1 名,兼任3 名,指導員3 名 ),栗野・横川の両町にまたがる大ノ山鉱山の私立青年学校(生徒数十名)というように 各地に企業内の青年学校が存在していたのである。これらは,企業内教育を青年学校とし て位置づけていることに特色がある。 鹿児島県内の青年学校が独立校舎をもって,きちんとしたカリキュラムのもとに,専任 教員が配属されて教育を行われていたところは,大正末期から昭和初期にかけての一町村 一つの実業補習学校の整備のなかで生まれてきた公民学校を基盤につくられたものである 。鹿児島では,青年学校が生まれる以前から小学校に併用されていた実業補習学校が独立 して青年大衆の教育機関として条件整備されていったところが数多くあったのである。こ の条件整備は地域差があり,県内一斉にされたわけではなく,町村の財政と町村長の姿勢 によって,違いがでてきていたのである。また,企業内に私立の青年学校が数多く生まれ たことは,職業技術教育と労働意欲,集団生活の規範教育等に積極的にとりくんでいたた めである。 第3章 鹿児島での公民学校の教育実践 大正末期の実業補習学校では積極的に公民教育を展開しはじめていたのが大きな特徴で ある。この公民教育を重視していく学校として,鹿児島県では,昭和初期に公民学校が生 まれていったのである。実業補習学校での公民教育の重視は,大正末期のことである。そ れらは,鹿児島県内のいくつかの実業補習学校の実践のなかにみることができる。 川辺郡津貫実業補習学校では,補習教育即公民教育として位置づけをしている。「従来 我校は補習教育即公民教育という見地の下に立憲自治の公民公民として教養ある人物を養 成する所に其基調を置き諸般の施設を計画実施しつつあり・・・・生徒の郷土生活を中心 として,社会公共の生活に必須なる知識を授けると共に,国民生活に必要なる道徳的情操 を陶冶し,以て,公民的知徳を涵養する所に主眼を置く」として,個人生活,家族生活, 社会生活,国家生活,国際的生活,政治的生活,経済的生活,教育文化,法律というよう に公民教育の講義を実業補習学校で実施している。 これらを教授していくうえで,留意すべきことは,職業科目との連携することと理論に 偏せず,郷土生活を中心として生徒の日常生活に即して具体的にとりあつかうなかで国家 ,社会公共の公民教育を展開すべきこと。さらに,公民的知識と同時に道徳情操を陶冶し て自律・協同公共的の自治的道義心の養成を強調している。公民的訓練の実習の活動とし て,修養的施設,体育的施設,娯楽的施設,勤労奉仕に関する施設,社会改善に関する施 設と5つの内容からなっている。 修養的施設の内容は,公民的訓練,生徒の独自研究,共同学習により自他人格の尊重敬 愛の機会,生徒自修の便に図書館・巡回文庫設置,談話会討論会により生徒の自治形成, 学級会学校自治会の開催,選挙行使の訓練,共同責任の訓練としての役員と構成員の連帯 ,春秋の生徒の立案による遠足修学旅行,儀式会合の訓練,神仏祖先崇拝等の情操陶冶の 訓練施設などをあげている。 勤労奉仕に関する施設では,農業家事裁縫その他学校作業等を教育的に重視して学校経 営を行う。毎月個人倹約貯金を履行する。青年団の計画貯金等の実施。社会改善について は,風紀改善,農事改良,生活改善があげられているが,農事改良では,具体的に次のよ うなことが列挙されている。 「一,生徒の家庭実習及青年処女団体の共同耕作等毎週二回の巡回指導。二,品評会, 競作会,農事競技会,生徒自ら審査より受賞並審査報告に至るまで自治的に遂行せしめ, 且つ優良なる結果を得たるものは其の研究の結果を発表せしむ。此の施設に属するものを 挙ぐれば次の如し。園芸品評会,水稲稲作会,陸稲競作会,麦作競作会,甘薯一畝歩競作 会,甘薯一株競作会,牛馬深耕競犂会,佐賀式雁爪競技会。三,組合組織に依る副業の奨 励,従来の煙草養蚕の組合に次ぎ新たに養鶏組合,園芸組合をも組織し副業の奨励をなす 。四,農事に関する講演会及短期講習会並研究発表会等を催して此の方面の深刻なる研究 をなす。五,年二回宛農事視察を行う。六,改良農具の共同購入及び之が普及を図る。七 ,病害虫の予防駆除除去法の研究をなす」。 以上のように詳細な農事改良の研究方法,品評会,学習活動がのべられている。このよ うに公民教育としての補習教育にとって農業の改良活動のための学習・研究が大きな位置 を占めていたのである。 そして,「学校の社会化教育の効果を確実に収め且つ之が永続を図るには,先ず学校の 社会化,教育の民衆化によりて生徒の環境を整理し,更に卒業生を指導し,尚民心を利導 して,社会全般に教育の真精神を徹底せしむるの必要なるを認め,各種社会教育施設の根 本を教育の上に置き,青年団,婦人会,処女会,報徳会等社会教育機関並報公農事子組合 の活動進展を促すべく指導督励すると共に,之等会合を利用し又は社会農業の指導等に依 りて学校と之等諸団体との連携を緊密ならしめ,一面には家庭訪問,家庭巡回指導,学校 参観,父兄懇談会等学校と家庭及社会との連絡関係を密接ならしめたる」というように学 校の社会化の課題を地域の社会教育活動との連携のなかで求めている。 実業補習学校の公民教育活動においては,地域の社会教育活動の連携をとおしての学校 の社会化が大きな課題となっているのである。(14) 鹿児島師範代用付属に併設されていた県立実業補習学校においても農業教育と同時に公 民教育に力が入れられていたのである。実業補習学校の教師の修養の内容として,農業教 育に対する理解,青年の理解と共に地方民性の理解,郷土に精通ということで地域の生産 ,生活,文化に目を向けていくことをのべている。公民教育の意義として「国民若しくは 地方自治団体の一員としての団体生活の知識を啓培しその性格を陶冶すること」と位置づ けてている。公民教育に関係する記念日として,自治制発布記念日(4 月17日),村是発 布記念日(4 月28日),時の記念日(6 月10日),国旗制定記念日(7 月11日),戊申詔 書記念日(10月13日),教育勅語記念日(10月30日)を指定している。公民教育のため見 学に村会,県会,模範補習学校,模範町村部落を,読書発表会,弁論大会,懸賞論文の提 出などの研究会発表会をあげている。自治的訓練として,役員制度の実施,模擬村会,共 同活動,学級会・青年団会・部落会での自治活動訓練,運動会・学芸会・品評会・見学旅 行視察等の自治的経営,図書館文庫・郷土館等での自修を強調している。 実業補習学校の農業教育において,地域の農会の果たす役割は大きい。市町村農会の職 員研究大会でも農会としての積極的な援助方針が討議されている。大正14年の鹿児島県の 農会の役員研修会において,農会としての具体的に農村青年の教育の提案がだされている 。「一,農村に於ける青年団と連携して青年講習会を開催し一層自治公民としての訓練と 農業経営改善の知識を涵養すること。二,農業補習教育をして一層効果あらわしむべく農 会に於いて援助すること。三,町村の図書館に一層農業趣味涵養に関する図書を備え付け 農村青年に閲読せしむること。四,農村青年に対して高尚なる農村娯楽を勧奨すること。 五,農村青年の視察団を組織し模範農村又は農業先進地を視察せしむること。六,国民高 等学校の設置を其筋に要望すること」。 さらに,議論のなかで,農業補習の欠陥を認めて,その改善に関すること,農学校の増 設要求,農村青年の思想安定の策,農家の経済の改善等が研究会でだされている。(15) 鹿児島県で,実業補習学校がはじめて独立校としての校舎と専任の教員集団の配属をし たのは,1923年(大正12年)西志布志実業補習学校であった。この設立に大きな役割を果 たしたのは,和田信二であった。かれは,鹿児島県が全県的に実業補習学校を普及させて ためにモデルになった郡立の実業補習学校の訓導であった。このことから各町村の小学校 に付設された実業補習学校を巡回していたが,青年団学習の事業としての様子が強く,農 閉期の夜間にしていたものが,郡立の実業補習学校は,各町村から優秀な生徒を入学させ てきた。西志布志では,大正10年頃から夜間から昼間の授業に改める努力がされ,2 年後 に独立した補習学校になったのである。 西志布志実業補習学校では,町村民の総員的後援を得なければ目的を達成することがで きないということから地域の農業振興のための青年教育ということから村長以下各団体長 ,地域の実践家21名に嘱託しての実際的教授にあたってもらった。そして,実業補習学校 の実習地を四つの視点から合理的経営をめざしている。(1)1戸の農家としての経営の 模範を示すこと。(2)実験実証的実習をなすこと。(3)町立農事試験場たる経営をす ること。(4)家庭実習地の指導場たるの経営を示すこと。そして,補習学校は,町村農 業界において大いなる権威をもつようにとしている。(16) 和田信二は,補習学校の実習指導の方法は「生徒が止むにやまれぬ心から圃場に望むよ うな態度を指導するということをあげ,どうしたらこの態度が形成されるのかということ を自主的な活動と創造発見的態度の指導として指摘する。「生徒に一定の土地を供し作る べき作物と肥料の種類を教師は指示して以後の計画を全部生徒の手に成らしむれば自らそ こに燃えるような熱をもって其の作業に就くものである。それは,はじめから創造の世界 である。しばらくして,作った作物に対して執着が沸いてくる。学校へでても先ず彼らの 足は圃場へと運び害虫を雑草を,生育の状態と自発的作業や詳細な観察が行われ観察眼が 出来る」。そして,実習指導は,「実習の終わりより結果を観るまで絶えず周密なる結果 の整理が必要」として,「おもしろく行ったところ,新しい発見事項改良意見等に怠らず 記載させて指導の参考」をあげている。(17) この西志布志の公民学校の評価について,同僚の谷山公民学校長が昭和8 年の鹿児島教 育誌で次のようにのべている。独立の公民学校は,「町村自治の切実なる要望のうえにつ くられたものである。これについて最も面白いのは,和田信二君の経営される西志布志公 民学校である。村の産業改善の中心が該校であることは勿論であるが,村会議事堂が校舎 内に設けられて,村の総ての研究吟味が皆公民学校で行われるという事である]。(18) 実業補習学校は生活中心の教育であり,学習,訓練,体育が実際生活を通して行われる ことを補習学校の視学を長らくやってきた兼子鎮雄は鹿児島誌のなかでのべる。「家庭及 び郷土における日常の生活年中行事自然歴及び職業生活推移のなかに各教科が織り込まれ ,教育上の施設行事が行われ,学習,訓練,体育が実際生活を通して行くことにより其学 習事項は生活の中に生きてゆき,学習態度は生活態度と一致して永遠に学校生活を離れて も伸び全人的に陶冶され職業的に訓練され教育は極めて実際的なものとなる」。そして, 補習学校では,生活教科中心の総合教授,郷土及家庭生活そのものの指導,家庭及郷土研 究の指導,応個教育の実際的進展を指摘する。生活指導,一人一研究,一事改良等の指導 も家庭及郷土の生活事実に求めることをのべている。また,個性,環境,生活事情が異な っている現実から学級組織のもとに画一的に指導することは困難であり,個別的に応個教 育をすべきことを強調している。(19) まとめ (1 )鹿児島県農会報(大正13年12月10日号,51頁−54頁)参照,拙稿「地域学校論」鹿 児島学術文化出版,76頁−88頁参照 (2 )和泊町誌歴史編632 頁〜634 頁参照 (3 )鹿児島県教育委員会編「鹿児島県教育史」昭和51年(復刻版),339 頁〜340 頁。 (4 )知覧町郷土誌昭和57年出版,822 頁参照 (5)指宿市誌昭和60年出版,945 頁〜946 頁 (6 )前掲書,89頁−93頁参照 (7 )鹿児島市誌第2 巻850 頁−851 頁 (8 )「本県実業補習教育の概要」,鹿児島教育誌,鹿児島教育会,昭和8年12月号,10 6 頁〜107 頁 (9 )福島繁三(県学務部長)「青年訓練を実施して」鹿児島教育誌,大正15年7 月号, 7 頁〜12頁参照 (10)えい町郷土史,昭和50年発行,521 頁〜524 頁参照 (11)「本県実業補習教育の概要」鹿児島教育誌,鹿児島県教育会,昭和8 年12月号,11 6 頁参照 (12) 「鹿児島県実業補習教育」昭和7 年調査結果,鹿児島県教育会資料参照 (13)「本県実業補習教育の概況」鹿児島教育誌,昭和8 年12月号,鹿児島県教育会,11 9 頁〜120 頁参照 (14)「我が校の公民教育施設−川辺郡津貫実業補習学校」「鹿児島教育」誌,鹿児島教 育会,大正14年10月号,104 頁〜110 頁参照 (15)鹿児島県農業会「鹿児島県農会報」大正14年3 月10日号,54頁〜56頁参照 (16)和田信二「本県補習教育の回顧と将来への希望」鹿児島の教育誌鹿児島教育会,昭 和5 年1 月号39頁〜42頁参照 (17)和田信二「実習指導法に対する愚見」鹿児島教育昭和5 年6 月号,20頁〜24頁参 照 (18)前田盛孝「本県実業補習教育の回顧と将来に対する要望」鹿児島教育誌,昭和8 年 4 月号27頁 (19)兼子鎮雄「本県補習教育に対する回顧と希望」鹿児島教育,昭和8 年4 月号,21頁 〜25頁参照