鹿児島県の高校改革の基本的視点の神田メモ
鹿児島大学 神田 嘉延
県教育委員会の高校教育改革の見方について「新世紀カリキャラム審議会の第2次中間報告」と「鹿児島県公立高等学校改革推進協議会の概要」が教育委員会のホームページで発表している。
この2つの文書は、現実の鹿児島県の高校生の苦悩を解決するものではなく、偏差値教育、差別選別教育、管理主義的教育を効率主義のもとに、さらに進めるものである。
第2次中間報告の現代の高校生像の捉え方には問題が大きい。高校生に対する不信と管理という発想が基本的にある。中間報告の認識は、ものの豊かさのなかでの子どもたちに何でも安易に認めてしまう「許容社会」に問題を求めている。規範意識の希薄化、忍耐心や根性が劣っているという見方である。また、調査から普遍性を導き出そうとしているが、調査の抽出方法も明らかにされておらず、この調査の高校生や保護者の価値意識のデーター確認もできないということで、現状分析の手法にも問題がある。
高校生の進路の問題は、基本的生活習慣や勤労モラル、基礎学力などと意識・意欲、能力など高校生側に問題を求めているが、今日の雇用情勢、企業のかかえている様々な問題点などの指摘は全くなく、すべて企業関係者の指摘を絶対化して問題をとらえている。県内の企業像にも様々なタイプがあり、青年の定着率の高い企業は、経営的にも発展している。それらの企業は、今後の鹿児島経済の担い手の可能性を十分もっているが、現実は県内の企業では、少数派であるため、この企業の声は報告のなかで全く反映されていない偏ったものになっている。
また、高校生の進路意識の希薄化のなかに、鹿児島県の教育界がもっている偏差値教育と管理主義教育の問題指摘がなく、すべてが高校生側の目的意識の希薄化に矮小化されている。管理主義教育の克服と高校生自身の自治の担い手の能力を高めていくうえでも高校生の学校管理運営の参加のしくみを考えていくことが求められている。
報告では、特色ある教育として、すべての面で高校を一極集中していこうとする見方を強くもっている。ひつとの高校において、個々の高校生に対応しての様々な可能性をもって、多様に学ぶコースが設定されているということではなく、特色ある学校として、能力を限定して、高校生のときから学校ごとにふるいわけしようとする構想である。
様々な可能性や多様なコースを高校生が学習過程のなかで選択することは大切なことであるが、その発想はなく、学校選択が進路のコース選択にしようとする発想が強い。実際の高校時代の生徒の進路意識は流動的である。高校ごとに特色をもたせての施設設備の条件整備をすることは否定されるものではないが、その施設設備が県内高校生の共通財産として、すべての高校生に開放されて自由に選択されるものであれば、進路との関係で、その特色ある学校に入学したことが固定されるものにはならない。
特色ある学校は、郡の単位で、それぞれが、連携した単位互換のしくみなどをつくっていくならば意味のあることであるが、ひとつの学校のなかで閉鎖的にカリキュラムをつくって、職業の進路選択を高校時代から固定させるようなことには問題が多い。
高校野球の甲子園出場校は鹿児島市内の特定の高校になっているのも鹿児島的特色である。となりの宮崎ならどこの地域からも甲子園にいくチームがある。どの高校にいっても様々な可能性のある高校時代ということが鹿児島では極めて制約されている。
報告の高校の類型化のAからEの項目の意味は全く意味不明である。このAからEの内容は、それぞれの学校で基本的に備わっていくべき教育内容であり、これらを分離して、観念的に、学校ごとに特色をつくるという発想には全く理解に苦しむ。人間の発達をどのように考えているのかという根本的な問題が報告者をつくった委員のなかにある。現代の複雑化した社会や科学技術が高度化したなかで、専門的な職業分化が一層に、進展していくなかで、自由に選択できるためには様々な分野の基礎的な能力の取得が求められてきている。このことは、職業進路の自己決定が年齢的に延長していく要素をもっていく。大学においても学部学科の流動化が重要性をもってきている時代である。
新世紀カリキュラム審議会は、あるべき高校教育像がはっきりしないが、明解なのは、高校の再編整備という財政の論理である。それも、子どもの数が減るので、現在ある高校を縮小再編するという単純な論理である。ここに、特色ある高校による縮小再編成がでてくるが、現代社会における高校生の発達論的な教育議論は全く無視されている。
また、同時に教育内容については全くはっきりしないが、精神主義的な道徳教育には熱心である。基本的生活習慣づくり、校則などによる教育の重要性が新世紀カリキャラム審議会にとって基本的なことである。「礼を正す、場を清める、時を守る」といった社会の基本的なルールやマナーの養成と、観念的な道徳を強調する。ここには、近代的な市民としての民主主義的な人格の形成という関心はない。さらに、かれらは、心の教育としての忍耐心と、非合理的な汗を流す体験学習の充実へと青年をかりだしていく。この非合理性の見方は、教育基本法の理念からはずれた非教育的な発想である。学校教育の現実の矛盾から様々な教育改革の議論があるが、この流れからもはずれた復古主義的な教育論を根底にもっている。まさに、時代に逆行する見方である。
新しい時代に対応した公立高等学校のあり方の文書では、適正な学校規模・学校数や整理統合を含めた適正配置のあり方が強調されている。ここでは、子どもの数の減少による高等学校の縮小再編成がもられている。現在の高校教育の現実の矛盾に即して、高校が準義務教育化した段階という認識のもとに、すべての国民に、高度化した学習社会のなかで、基礎的な学力と市民的な人権を基礎にした道徳・モラルの形成の教育が高校教育に求められているが、入学後に、コースの多様化を固定しての格差分断的な発想である。そして、高校時代に生徒自身が未来を希望に満ちて生きていけるように、進路の自己認識できる様々な教育機会が与えていくという青年の発達論的視点が全く欠落している。
これらを実現していくには、高校教育の抜本的な改革が必要である。高校教育を準義務教育な側面から、それぞれの生徒が国民として生きていくための基礎的な学力形成の教育が必要である。さらに、将来の職業進路の自己認識と、その能力形成のために、個々の生徒にとっての特色あるコースの教育と2つの側面があることを忘れてはならない。
この理念を実現するために、高校生が学校の枠をこえての自由に選択できる特色ある教育施設が求められている。特色あるコースの自由選択のためには、授業の期間設定などの工夫も見落としてはならない。郡単位に中高一貫教育の学校をつくっていくことも特色ある学校をくまなくつくっていくうえでのひとつの工夫である。高校教育改革を進めていくうえで、今もっとも求められていることは、現実の高校教育の矛盾の直視から未来の高校教育を考えるべきである。
戦後の教育改革のなかで、地域総合制の高校の理念を打ち出してきたが、現実には、偏差値教育のなかで差別選別の高校の多様化が進んだ。この矛盾克服として、郡単位による地域総合の理念を現代に、再編成するということで、中高一貫教育の学校をつくっていくことも大切な課題である。
この学校は、郡単位での高校の単位互換性を実施し、郡としての地域総合をしていくという構想である。特色ある中高一貫教育をつくった学校は、郡単位の単位互換のなかで総合性をもっていくカリキュラムの工夫が求められている。郡単位の総合性をつくっていく連絡調整的な機能を果たすのは、中高一貫教育の学校が担うべきである。中等教育には、基礎的・教養的能力の形成の側面と、職業・進路の側面から特殊的な多様性をもった能力形成の側面と2つの面がるが、この2つの側面をひとつの学校だけで貫徹していくということではなく、郡単位の地域のなかで統一していくという考えである。